私は高校生の初めの頃から将来の夢について真剣に考える様になりました。その中で神さまが見せてくださったのは「人間の弱さ、無力さ」でした。神さまはこの滅亡してゆく人間を助けるために医療宣教を神さまが私に望んでおられると思うようになりました。そのために私は高校生から本格的に医学部へ向けた勉強に熱心に取り組むようになりました。主が指し示してくださった道を歩むこと、それによって神さまが必ずご自分の御心へ向かう道を開いてくださると信じていました。しかし結局私は浪人を1年間してもなお、行きたかった医学部には入ることは許されませんでした。心底神さまに裏切りを感じたような気分でした。しかし、神さまは確かに私にはっきりと示してくださいました。人を理解せず、民族を憎み、国を嘲弄することで自分らの存在を示す「傲慢」という弱さ、そして何よりも私たち人間は自らの力では永遠なる命を得ることができず、どんなに大きな権力を持っている人や知的な賢者でも最終的には滅亡してしまう人間の無力さを神さまは見せてくださっていました。そしてその人間の弱さと無力さが罪によって覆い隠されててるこの世界の中で、物理的な病だけでなく、霊的な病を持っている人たちのために働くようにと示されていたのでした。肉体を救うのではなく、魂を救うものとして神さまは私に確かに召命を与えてくださいました。
その時に与えられた御言葉は、イザヤ書6章8節のイザヤ召命物語です。当時の王だったウジヤ王は結局高慢という人間の弱さによって裁かれます。イザヤに与えられた召命の内容はイスラエルの民たちにとって決して希望なるものではなく、むしろ神さまは彼らから背を向けるという内容です。しかし、私はどこかこの内容に希望を感じさせられたのです。イザヤの時代にも今私たちが生きている時代にも人間の弱さというものが変わりなく存在し、それによって人間は罪を犯し続けています。神さまはイザヤに願っていたことを私にも与えてくださったのです。この弱さを全世界に告げ知らせなさい。その弱さを気づかせるように語りなさい。そして、自分の弱さに気づき、無力さを知った時、その全てを益として用い、彼らの帰りを待っている愛の私に立ち返らせなさい。この召命が与えられた時、私は否定することなどできませんでした。その召命一つによって、牧師など絶対ならないと決断していた私を神さまが変えさせました。もちろんこれから待ち受ける牧会は決して易しいことだとは思っていません。しかし、その易しくない道をも祝福と喜びに変えてくださる神さまだけにより頼んで私の人生を捧げます。主の御心に従ってゆくものに神さまは良いものを拒まれません。私は、直接的に主の働きを担う者がこの世の中で一番、何よりも祝福された道だと思っています。