長尾基詩

長尾基詩

ながお・きし

苦難は忍耐を、忍耐は練達を、 練達は希望を生む

CHAPTER 01

神学部を目指した理由
(献身の証)

私が神学校に行こうと決めたのは高校生の時です。
高校入学を機に、母のいる東京に再び住まいを移し、教会籍も府中キリスト教会に移ることとなりました。中学校は公立でしたが、高校はミッションスクールに通い、教会にもより主体的に関わることのできるようになって、自分と神様とのかかわり方、教会とのかかわり方、将来のこと、聖書に書いてあること、福音について深く考えるようになりました。それまでの私の理解では、福音とはすでにこの世に来られたイエス様が達成され、完成されたものであって、この世界には何の欠如もないことを示すものでした。しかし、府中の教会に行ってからは私の見える世界が少しずつ違ってきました。東京の府中教会に集ってくる方々は決して順風満帆な人生を送ってはいませんでした。集ってくる方一人ひとりがみんな何かを抱え、生きづらさを感じていました。高校生になってから初めて自分から参加した水曜日の祈祷会ではそれぞれが思いを分かち合ってくれます。それらの一つ一つが深刻な課題を持ち、病気や家庭、仕事、国籍に至るまでほぼすべてが簡単には解決できない問題ばかりでした。私は苦悩する信仰者たちの背中を見ながら、私の福音の理解が変わっていくのを感じました。今まで感じていた完成されたものとしての福音理解は崩れ去り、新たに一つの信仰が与えられました。
福音とは今も多くの人々に必要とされるものであり、それをまだ知らない方は大勢おられます。聖書の語る福音は聖書の中だけのものではなく、二千年以上前の出来事、倫理、戒めなのではなく、私たちが生きる今に語られ、私たちにとってなくてはならないものです。今までは「私にとって」だった、「私にとって」語られている聖書の福音は実は「私たちにとって」語られているものなのだという事を知りました。これはあくまで私の理解ですが、この示しを与えられたことをきっかけにして、私は祈りました。私自身が神様に福音伝道の働きの召命を与えられているのか、つまり牧師になるか否か、はっきりと答えの出せない期間をしばらく過ごしました。具体的な進路の話も当然自分の問題として迫ってきます。神学部に行くのか、またはとりあえず普通の大学に入って、そこでまた考えるかといった選択肢が私にはありました。両親や最近神学校を卒業された牧師先生などにも相談しながら、祈り続けました。そのような日々の中で徐々に不安定だった牧師としての献身への思いは固められていきました。道の見えない日々はとても不安で、焦燥を感じる苦しいものでしたが、今思えばあの祈りの時間が西南で学び続ける上での重要な土台になっていると感じています。

CHAPTER 02

学生生活

現在は西南学院大学で学び始めて3年になります。神学校に行くという事は人生の生きる場、全領域を学びに投じることであると身に染みて感じさせられています。多くのキャンパス、寮生活、研修教会、それぞれの場で多くの試みがあり、悩みがあります。悩みに押しつぶされ、挫折しそうになったことが何度もあります。今後も数々の困難があるでしょう。しかし、その困難が増し加えられるほど御言葉が私の希望として輝きを増して迫ってきます。御言葉こそ現在を生きる私たちにとって必要なものであり、不可欠な存在です。最後にわたしの支えとなり、生きる糧となっている御言葉を紹介させていいただきます。「わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、 練達は希望を生むということを。 ローマの信徒への手紙 5章3-4節」

TOP
TOP