まことに、
この人は神の子だった
神学部教授会 須藤伊知郎

≪まことに、この人は神の子だった─2023年4月24日神学部チャペル説教から≫

イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、

「まことに、この人は神の子だった」と言った。(マルコ福音書15:39、聖書協会共同訳)

 

マティアス・グリューネヴァルト(マティス・ゴタールト-ニタールト)「キリスト磔刑」バーゼル美術館。画面右に百人隊長が立っており、ラテン語でVERE FILIUS DEI ERAT ILLE「まことに彼は神の子であった」と書かれている。

Matthias Grünewald (Mathis Gothart-Nithart), Die Kreuzigung Christi, in: Kunstmuseum Basel, Sammlung Online, https://sammlungonline.kunstmuseumbasel.ch/eMP/eMuseumPlus, Zugriff vom 15.9.2023

十字架刑執行の現場責任者であった百人隊長は、どうしてイエスが神の子だと分かったのだろうか。「このように息を引き取られたのを見」たからだろうか。しかし、十字架につけられて何もできず、悲惨な姿で無力に死んでいく姿を見て、神の子であると認識できるとは到底思われない。ローマの兵士にとって「神の子」とは、デナリオン銀貨に刻印されているように、元老院によって死後に神として神格化された先帝(この場合は初代アウグストゥス)の後を継いだ皇帝(第2代ティベリウス)のことであり、常識的に考えれば、そのローマ皇帝に逆らったとして反逆罪で処刑されたイエスであるはずはない。直前の38節に「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。」と書かれているので、これを目撃して「神の子」だと分かったのだろうか。しかし、処刑場のゴルゴタの丘はエルサレムの城壁の外、西側に位置していて、そこから神殿の垂れ幕は絶対に見えない。百人隊長は視覚によってイエスを神の子であると認識したのではないのである。では、聴覚はどうであろうか。

ここでヒントになるのが、「まことに」という言葉である。原典のギリシア語でアレートース(ἀληθῶς) であるが、この副詞に対応するヘブライ語はアーメン(אָמֵן)とその派生語である。アーメンは、誰かが先に言った言葉に対して、「まことに」と応える言葉である。ところが生前のイエスは、まだ誰も何も言っていないのに、自分から「アーメン、私はあなた方に言う」と語っていた。聞いている人々はさぞびっくりしたことだろう。しかし、実はイエスには神の言葉が先に聞こえていたはずである。彼はいつも神と対話していた。そこで、神から言葉を聞いて、「アーメン」、まことに、その通りです、と言ってから、聞いた言葉を周りの人たちに伝えていたのである。

マルコ福音書では、イエスがバプテスマを受けた時、天が裂けて「あなたは私の愛する子、私の心に適う者」という声が生じた(マコ1:11)。また、山上で姿が変わった時に雲が現れ、その中から「これはわたしの愛する子、これに聞け」という声が生じた(9:7)。前者はイエス(とバプテスマのヨハネ)、後者はペトロ、ヤコブ、ヨハネの弟子たちに対して語られた声だが、いずれの場合もこれに対する応答は記されていない。ここで15:39の百人隊長の「まことに」が応答であるとすると、その直前に「これはわたしの愛する子」という声が、三度目に響いていることになる。バプテスマの際に天が裂けたように、十字架刑の際に神殿の垂れ幕が裂けて、決定的な神の声が響いたのである。百人隊長はその声に応答した。福音書を読む読者は、この百人隊長の告白を通して今も響いている神の声を聞き、この声に「まことに」、アーメンと応答するよう、促されている。

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