死後
落語に「死神」という噺があります。借金をして生きる希望を失った男に死神が現れ
「医者になって金を稼げ。病床に行き、死神が頭の方にいるなら病人は寿命だが、足の方 にいるなら、じゅ文をとなえれば助かる」と言いました。その通りにすると、男は名医と して評判になります。しかし浪費癖はなおらず、ある病気の金持ちの頭側に死神が座って いるにもかかわらず、病床をまわして延命してしまいます。怒った死神は男を穴ぐらに連 れていくと、そこには人の寿命を表すローソクが沢山ならんでいます。その男のローソク は延命した金持ちのローソクと入れ替わっており、まさに消えようとしている。男は死神 に命乞いをしますと、他のローソクに火を移せば助かると聞いてあれこれするのですが、 その火を見つめたまま「ああ、消える」といってばったり倒れてしまうというサゲです。 このサゲには色々なバージョンがあり、そこにそれぞれの落語家の死生観がうかがえま す。
8月初め、突然の網膜剥離で緊急入院・手術をしました。手術後、何も見えず病床に臥 せっていますと、色々なことを考えてしまいます。そして「この病気は治るにせよ、だん だん健康も思うようにいかなくなってきているから、やがて、同じ感じで一人死んでいく のだろうな」とまで考えてしまいました。死神をだますこと等、誰にもできません。急な ことに対する適応障がいだと思いますが、私にとっては不安、絶望、孤独でした。人間、 自分の思いの世界に閉じこもるなら、ゆき詰まるのかもしれません。
祈りました。その時、「私」の外から声がしました。私の隣にいながら、私を越えて、 イエスが共にいて、聖書の言葉を語り掛けて下さる。私の思いを越えて、不安ではなく信 仰の、絶望ではなく希望の、孤独ではなく愛の物語を語って下さる。そしてこの物語に生 きたのは、先に召された父や母、そして今、心配してくれる家族も同じ。駆けつけてくれ る牧師、リモート礼拝で祈ってくれる教会の方々によって、私は信仰と希望と愛を支えら れている。
この信仰と希望と愛を生き、語り合い続ける、それが神学校の学びであり、私の仕事な のだと思います。
落語「死神」はグリム童話「死神の名付け親」を基にして明治につくられた噺です。グ リム童話では最初に、医者となる男の親が、その男の代父(名付け親)を探して、神に会 いますが、父は神に「あなたはお金持ちには与え、貧しい者にはひもじい思いをさせる」 と言って、代父になってもらうことを拒みます。その後、死神に会い「あなたはわけへだてなく、お金持ちも貧しい者も連れていく」といって代父になってもらうところから物語 は始まります。この死神は医学などの科学、そして「私」が理解する限りの人間の世界の 象徴かもしれません。平等で、しかし対話はできません。死神を前に、「私」は諦めるこ としかできない。しかし、死神は神ではない。そして神は(映画『戦争のはらわた』でシュタイナー伍長が言うようには)無自覚なサディストではない。「私」の理解する、そのもう一つ向こうに、神は連れていく。信仰と希望と愛を、霊なる神が下さろうとしている。それをすべての人と共に受けたいのです。アジャラカモクレン、テケレッツのパー!