「先生と呼ばれてはならない」雑感
聖書に「あなたがたは、『先生』と呼ばれてはならない」(マタイ 23:8)とある。そのためか、「全員『さん』づけで呼びましょう」は教会でよく耳にする。しかし、多くの 場合、現役「牧師」だけは例外である。それを求め、教会に周知させる牧師・教会もない 訳ではない。「教師はキリスト一人だけ」なので「先生と呼ばれてはならない」という聖 書の教えに従うなら、牧師も「先生」と呼ばないことにしたらどうか。
私の場合、牧師経験があり教員でもあるので、どう呼んだものかと教会では迷う時もあ るらしい。そこで「先生」で呼ばれたり、「さん」で呼ばれたりするが、どう呼ばれても 返事はする(長い間「先生」と呼ばれてきたので「さん」は少し慣れない、が)。ところ で、知り合って以来「金丸さん」としか呼ばない教会の知り合いがいる。こちらの状況が どう変わってもずっとそうなので、字義通りの意味で「有り難い」(ある日、その人が 「先生」と呼び出したら「怪しい」と思わねばならないだろう)。
誤解のないように言っておきたいが、「先生と呼んでほしい」のではない。場面によっ て(多くの場合、人目のある時と、ない時)で呼び方を変えるのをやめていただきたいの だ。そして、こちらの方がもっと大切。個人の判断で呼びたいように呼ぶ自由を認めても らいたい。「先生」と呼ぼうが、「さん」と呼ぼうが、本来その人の存在と人格に対する尊 敬の念には何の関係もない。「先生」と呼ばれると上等の人間になり、「さん」になると人 間の質が下がる訳でもないことは、当の本人が一番よく知っている。しかし、そう考えな い人も教会にはいる。
昔、西南に W. M. ギャロットという宣教師がいた。弱冠 22 歳でサザンバプテスト神学 校から聖書学の博士号を授与され、将来の教員候補に目されながらそれを捨てて日本に来 た。私は 1989 年にその神学校に留学したが、当時すでに退職していたある老教授からこ う聞いた。「あなたは日本のバプテストらしいが、ギャロットという宣教師を知っている か。彼が博士号を拒んだのを知っているか。『聖書は、あなたがたは先生と呼ばれてはな らないと教えているので、自分も Dr.の学位はいらない』と言って大変だったという話だ よ」。そこでは伝説になっていたらしい。それにしても徹底している。
最後に個人的な経験。留学中、メンターを一貫して「Dr.」で呼んでいた私は、博士号を 取った後、これまでの習慣で「Dr.」と呼ぶと、「君が私のことを『Dr.』と呼ぶ限り、私も 君を『Dr.』で呼び続けるがそれでいいか」と間髪入れずに言われた。もはや教師と学生の 関係ではなく、同僚であるという意味らしい。呼称の問題は、呼ぶ側と呼ばれる側の人格 的な関係から生じる自由に基づく事柄である。間違っても「教会で一律にそう決めたか ら」ではないであろう。それは、バプテストのスピリットとは異なると思う。