「聖書とともに、煩悶し、迷うこと」
神学部教授会 藤方玲衣

「聖書とともに、煩悶し、迷うこと」

ごきげんよう。藤方玲衣と申します。今年度より、西南学院大学神学部の教員として赴
任して参りました。 数年前、学生としてこの『道』に文章を書きました。カール・バルトの論考「ヨブ」に
ついての雑記のようなものだったと記憶しています。最初の大学での卒業論文から、今に 至るまで、私の傍らにはずっと「ヨブ記」がありました。私は、「ヨブ記」に出会ったこ とから、ヘブライ語聖書の研究を始め、神学という営みに携わるようになったのだなあ、 とつくづく思います。最初はヨブの叫びに惹かれ、そして謎めいたエリフという人物の声 に興味を抱き、そして関心領域は、第二神殿時代の死海文書までつながりました。「ヨブ 記」を読むことが、私のこれまでを導いてきましたし、またこれからも同じようであり続ける気がします。 「ヨブ記」の物語では、ヨブと友人たち、そして神の間で対話が展開されます。神という存在をめぐって、異なる見解をもった者たちがそれぞれの声をあげています。ひとりひ とりの言葉に耳をかたむけてみてください。どの言葉だってきっと、「間違っている」と 言い切ることはできない内容を持っているように思えます。ヨブの友人たちの言葉は、ヨ ブの切実な訴えよりも、宗教的な教条を優先させ、苦難の中にあるヨブを傷つけるものだ とも言われます。しかし、ひとがこうした考えを持つのはなぜかと考えてみると、また違 うものが見えてくるかもしれません。ヨブに答えて神が発した言葉の内容は、「ヨブ記」 の作者による神観念を表現したものですが、こうした神の姿について、読者であるあなた はどのような想いを抱くでしょうか。そしてヘブライ語聖書の他の箇所では、「ヨブ記」 の神とはまったく異なる神の姿も語られています(『旧約新約聖書神学事典』には、ヘブ ライ語聖書の神観念を要約するような一つの理念は存在しないと書かれています)。
聖書に向かい合うと、どれが、「ほんとうの」神の姿なのかわからなくなって、きっと (必ず)途方に暮れると思います。私は、そここそが、神学の出発点であると信じていま す。聖書が証言する神は、ひとつの理念や、何らかの教義に縮減されるものではなく、生 のなかで、歴史のなかで、そのひとと神との関係のなかで、かたりかける存在であるとい う気がしてなりません。ですから、ひとりひとりが神について語る言葉は、それぞれにと ってのかけがえのないものとなるのだと思います。たくさんのいのちのなかにあふれる、 豊か過ぎる神についての言葉の中で、ひとりの人間として煩悶し、迷うことこそが、神学 の営みであると、私は考えています。

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